背後からの高野山の険しい山並みに押しつぶされ、目の前には紀ノ川が大きくうねりながら流れている。九度山の地にはひとかけらの平地も無い。高野口からR24を南に反れ、紀ノ川に架かる九度山橋を渡る。案内に従うと直ぐ左手集落の中程に善名称院、通称真田庵というのがある。門にはくっきりと六文銭のレリーフがある。真田家ゆかりの地であることを誇らしげに見せている。あぁ、ここが紀州真田の里。真田昌幸・幸村父子が関ヶ原の敗戦の後、不遇の時を過ごした場所である。狭い。当時の居館がどの程度の広がりがあったのかは想像もできないが、ちょうど今から400年程前ここに幸村が生きていたことに思いを馳せると実に感慨深いものがある。歴史上の人物とばかり思っていたものだが、その昔、この私が踏んでいるのと同じ土を幸村も踏んでいたのである。境内にある資料館にある幸村の肖像画は、非常に穏やかな表情をしている。この九度山に居る頃のものであろうか。そうであるとすれば、この後、壮絶な最後を遂げることになるとは、この肖像画からはとても想像できない。ここには、有名な真田紐が展示されている。目にするのは初めてである。丸い断面を想定していたが、ここにある物は平べったい。なるほど造りは丈夫そうである。生計の足しにとこの真田紐を家臣が売り歩いたと言う。如何程の足しになったであろうか。それよりも、売り歩くことによって各地の情報を得ていたと言う見方もある。幸村のことだから、おそらく、情報の取得が主で生計の足しが従であろう。その情報を基に来るべき再起の方策を日夜練っていたことであろう。家康を倒すにはどうすればいいか。この一事のみである。
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