2.長篠設楽原の合戦
 新城市竹広周辺(設楽原) Map

織田軍が3000丁の鉄砲の3段つるべ打ちで、押し寄せる武田騎馬軍団を壊滅させたと謂われている長篠設楽原の合戦。やっと、今回その現場を見ることができた。

第一印象:なんでこんな狭い所で大軍がぶつからなければならなかったのか。
これである。

はっきり言って、そこには騎馬軍団が縦横無尽に走り回る場所は皆無である。
何故、武田軍がここで戦う腹を決めたのか全く理解できない。逆を言えば、織田軍は、「武田騎馬軍団をやっつけるにはここしかない」という究極の選択をしたことになる。これは、偶然の結果ではない。よくよく考慮した挙句の最善の策であったことになる。
勝頼は決して凡庸な大将ではない、と思う。むしろ、積極果敢な大将であったと思える。ただ、父信玄亡き後、何がしかのあせりがあったのではないだろうか。それは父信玄に負けたくない、自分は父信玄に決して劣ってはいない、ということを常に家臣に納得させ続けなければならない、という一種の強迫観念にとらわれていたのではないだろうか。簡単に言えば功をあせりすぎた、急ぎすぎた、と言えるのではないだろうか。
無敵と謂われる武田騎馬軍団を要しているという驕りがあったのは事実だと思う。そのため織田軍の戦力の研究を怠った。当時の時勢の流れを読むことができなかった。

上の写真は設楽原の南の方、東郷中と歴史資料館との間、連吾川に架かる小さな橋の上から北を望んだものである。連吾川の左手丘の上が織田軍、右手丘の上が武田軍の陣地である。
上の写真は連吾川の西側織田軍が拵えた馬防柵である。この柵の内側に3000丁の鉄砲がずらりと並んだ。背後は直ぐに急斜面となって味方陣地へと登って行く。実に狭い。
一方、こちらの写真は連吾川の東側武田騎馬軍団から望む馬防柵である。距離はせいぜい100mほどしかない。全くちゃちな物にしか見えない。

参考までに、現地の地形について解説を加える。(上の図は不肖宮様手製の合戦図)

現地は、連吾川という川幅数mほどの小川が南北に緩やかに流れ、東側と西側にはなだらかな丘陵地が迫るという実に狭小な凹状の地形である。この西側丘陵地には織田軍諸将の陣地が連なり、東側丘陵地には武田軍諸将の陣地が連なる。その東西の丘と丘との距離はどう見ても500mを越えない程度である。ということは、決戦の場はその丘と丘からわずかに下った連吾川両側のわずか200mほどの範囲でしかないということになる。
織田軍は連吾川沿いにズラリと馬防柵を築き、その内側に鉄砲軍団を南北に延々と連ねる。織田軍の陣地は実に狭い。奥行きがまるでなく、馬防柵と味方が陣取る丘上とはやや急な斜面が遮る。従って織田軍としては馬防柵に拠ってひたすら鉄砲を打ち続けるしかない。
一方の武田軍はというと、東側の丘上からはゆるやかな傾斜地が連吾川に向かって下っている。その距離、せいぜい100m。その連吾川の向こうに、何やら木で造った柵のようなものが連なり、そこに足軽軍団がひしめいている。実際、武田側からみた馬防柵は、とてもじゃないけど強固な物には見えず、あんな物で騎馬軍団を押さえられるものか、蹴散らしてくれる、という気持ちになってなんらおかしくはない。私だって、こんなものが、と思ったもんだ。
しかし、しかしである。ここで鉄砲の存在が挙げられる。
それも武田軍が未だかつて見たことが無い圧倒的な数の鉄砲が待ち構えているのだ。それは単なる「鉄砲の威力」ではなく、「圧倒的な数の鉄砲の威力」なのである。
武田側の織田軍戦力分析が根本から間違っていたことが簡単に、しかもあっけなく証明される形となって現れてしまう。

要するに、今で言えば、騎馬軍団の100m競争である。しかも100m先には確実に死が待っている。
これは合戦なんぞというしろものではない。織田方鉄砲軍団による一方的な殺戮と言っても過言ではないであろう。何しろ、武田軍は南北にズラリと騎馬軍団が並び、これが一斉に丘を駆け下って馬防柵に突き進む。このわずか10秒ほどの間、ひしめき合って突き進む余り、横へ動き回るということができない。正に死に向かって10秒一直線である。
こんな馬鹿な話は無い。いくらなんでも余りにも理不尽な殺戮である。
こんな理不尽な殺戮戦が実際にこの地で行われたことに、私は言いようの無い虚しさを覚える。

私は、思う。
武田軍の諸将は、信玄亡き後、勝頼の戦振りを見て、そこに自分たちの明日を見ることはできなくなっていたのではないだろうか。頼りの信玄はもう居ない。歳も取った。明日が見えないのなら、過去の栄光を思いながら潔く死に場所を選びたい。おそらく、そういう思いが日々心の中に鬱々と膨らんでいたのではないだろうか。
もし、私が信玄で、あの連吾川の東の丘上に立って西側を見下ろしたら、合戦止ーめた、という気になっていただろう。負けると分かっている戦をする大将ほど馬鹿はいない。

連吾川を後にして、バイクにまたがり、西側の丘下にある中学校を右に見てそのさらに西へバイクを進める。と、そこには広大な平地が広がっている。織田軍の陣地の後ろには、正に武田騎馬軍団が自分たちの力を思う存分発揮できる広大な平地が広がっているのだ。

私は、この平地を見た時に改めて思った。  これが時勢だ!!
これこそが時勢というものなのだ。