2009平成21429日(木)晴れ。ゴールデンウィークの初日。30日は出勤日だが大方の者が休むというので結局私も休むことにした。おかげで7連休となった。兼ねてよりウズウズしていた石川県滝ヶ原地区の石橋を求めて、まずは初日は福井県武生からである。昨年8月に訪れた桜橋、今日はR8その名も桜橋交差点から左下に見下ろし、トンネルを越えて武生の地へ踏み入れる。塚原でR8からR28に乗り換え北へ向かう。大虫神社・剣神社を後にし、鯖江市から福井市へと向かう。
1.和田八幡宮参道橋・厄除橋 福井市和田中1丁目
2径間太鼓
初めての場所なので時間の配分がつかめない。とにかく鯖江市神明社を後にし、先を急ぐことにして、R8に出て左折、福井市内を目指す。福井市内までは流れも順調でアベレージも高く、目指す和田八幡宮までは20分ほどで到着。1530だ。この辺り、足羽川を越えるとR8はしばらく高架が続く。それを知らないものだから足羽大橋を越えて直ぐ左折するべきだったが、気が付いた時には通り過ぎてしまい、1kmほど先でやっとUターン。和田八幡宮は有名なのかどうかは分からないが、大きくは無い。境内も広くは無い。でも表参道の赤色の鳥居の下を小川が流れており、そこに見事な神橋太鼓橋が架かっている。親柱には平仮名赤文字で“やくよけばし”とある。極最近に架け替えが行われたふしがある。2径間太鼓橋だが、橋脚は川床までは到達しておらず、RC桁に預けられている。河川改修工事に伴う架け替えだったのであろう。横から見ると完全な半円形ではなく、やや上に突である。砂岩か泥岩なのであろうか、彫刻刀でも削れるんじゃないかと思われるほど柔らかな材質である。そのせいと思われるが造りはかなり緻密である。裏側には欠けた部分をモルタル補修したと思われる箇所もある。小振りなので助走をつけなくてもエイッと防寒ブーツのまま飛び上がる。滋賀県内の神橋とはかなり趣が異なる。たまねぎ型の擬宝珠が12個乗っかっている。太鼓橋の両側には真っ白な2枚桁の添橋が架かっている。
2.西添橋 3.東添橋
2枚桁 2枚桁
11.歴史博物館東橋
福井市宝永3丁目12
養浩館西門を出ると目の前に歴史博物館がある。その東側は公園になっていて、真っ白な真新しい一枚橋が架かっている。RCじゃないの?と疑いたくなるが、一応計上。
4.九十九橋 福井市中央1丁目
多径間多脚式桁
和田八幡宮からは何となく西へ向かうと自然と福井駅の南に行き着く。福井城跡を目指していたのだが、高架を潜った先右手に何やら桁橋が忽然と現れた。ビル街にえらく場違いな雰囲気があるが、とにかく目立つ。なんなんだろうと思って近付くと、ここは北の庄城跡とある。あの柴田勝家とお市の方が自刃した場所なのである。へーっと思う。今ではほんのわずかな遺構しか残されていない。その入口に桁橋が長々と横たわっていたのである。説明書きによれば、九十九橋、足羽川と北陸道との交点に架かっていたのを移設保存したようだ。こういう保存の仕方は悪くない。欲を言えば、橋下に水が流れていればもっといい。面白いことに長さの半分ほどは石橋で、その向こうは木橋である。
説明書きに曰く“長さは88間、板橋47間、石橋41間”
5.養浩館庭園州浜橋 6.庭園築山橋
福井市宝永3丁目11
福井城跡の北東側に養浩館庭園と言うのがある。福井藩主の別邸として造られたものらしい。私は西門から入った。210円也。京都なら500円は取られるであろう。見事な庭園である。水路沿いを進むと、パッと視界が開け、おだやかな池が広がっている。目の前にゆるく弧を描く一枚橋が架かっている。いい雰囲気だ。何となく2径間風に見えるが、元々は単径間である。たぶん、いつの時期か折れたのであろう。橋脚代わりに石を積み上げている。こういう修復の仕方で十分である。右手には州浜。ここから右回りに進むこととし、橋を渡って築山に向かう。築山の途中にも一枚橋。築山の東にも一枚橋。さらにその先、遊歩道に出る所にも一枚橋が架かっている。
7.庭園築山東橋 8.庭園北橋
9.庭園遣水橋
そして、最も印象的ななのは、御月見ノ間の南に架かっている自然石一本橋である。これでも橋なの?と疑いたくなるほど低い。この石のすばらしさはどうでろう。思わず右頬がニヤリとする。とにかくその存在感や圧倒的である。こういうのがさりげなく遣水に置かれているのがにくい。長旅の疲れも吹き飛ぶというものだ。
松平春嶽さんも絶賛したに違いない。“うむ、なかなかによきいしじゃ。よはきにいったぞよ”
10.庭園清廉橋 池をもう少しで一周するという西南端に清廉という建物がある。その手前に細い谷を跨いで長い一枚橋が架かっている。珍しく横断キャンバーが付いている。
2014.09.13(土)晴。 今日から3連休。先週に続き高速を使わない長距離遠征で、福井県を目指すことにする。通常であれば名神・北陸道と乗り継ぐところだが、琵琶湖の西側をR161湖西道路と言うのが走っており、これがほとんど高速道路然としており、バイクの場合、高速を使う場合よりほんの少し遅い速度(80km/h)で走ることが可能である。実際、早朝の北行きは想像通りの高速走行で、こんな状態であれば料金を払って名神・北陸道と乗り継ぐ意味がほとんど無くなって来ると言うもの。
12.小和清水発電所導水路橋 福井市朝谷町
石アーチ    こわしょうず
池田町を後にして、大野市へと向かうことにする。ここでも私は寄り道をしたいと思っていたのだが、今回もNAVIが示すルートは私と同じで、難無く寄り道をすることができた。実は、いつものように事前にWEB地図上をあちこち彷徨っていたのだが、ふと見ると水路が交差しているポイントがあることに気が付く。どういう謂れの水路かは分からないが、これまでの経験上こういうポイントは非常に怪しい。で、細道を登って行くと目の前にRC板できっちり蓋をされた、おそらく発電所導水路と思われる水路が現われた。その直ぐ先を、一筋の谷溝が潜っているようだ。ダメ元で飛び降りるとアーチが見える。中を覗くと見事な石積が見えるではないか。これは紛れも無く導水路の石アーチ水路橋である。小さくガッツポーズ。さっそく、シダ類を剥ぎ落すと小振りだがきれいなアーチが現われた。かなり斜交しているようだが、ねじりまんぽにはなっていない。
径間
1.45m、内高約1.18m
15.一乗谷城下町橋1号 16.一乗谷城下町橋2号
福井市城戸ノ内町  きどのうち
今回の旅のメインのもう一つが一乗谷朝倉氏の遺跡のチェックである。朝倉氏と言えば、織田信長に反抗し、結果的に浅井・朝倉連合軍は滅亡してしまい、何となく歴史上は悪のイメージがあるかとも思うが、信長以前の朝倉氏はこの一乗谷でその繁栄の栄華を極めていたのである。私は、その一乗谷とはどういう所なのか少なからず興味を持っていたのだが、今日やっとその地に立つことができた。はっきり言って、ど田舎。正直、なんでこんな所にとも思う。ま、中央集権体制が確固となる以前には、日本のどこにでもこういう繁栄した地域があってもおかしく無かったのかもしれない。要するに今は昔の話である。小和清水町から戻り、R158からR18に入り南へ向かう。直ぐに前方が何となく広々と感じられる一画に遭遇する。R18の右手にどうやら建物群の遺構と思われる広大なスペースが広がっている。軽い気持ちで1枚写真を撮ったが、よくよく眺めるとそこここに桁橋が架かっている。これを一つ一つパチリパチリとやっているうちに、途中で止める訳にもいかず、とうとう22基を数えてしまった。せっかくだから順番に掲載することにする。尚、さらに上流へ進むと、当時の街並みを再現した一画もあるのだが、もうゲップが出そうということでそこには入らず。
17.一乗谷城下町橋3号 18.一乗谷城下町橋4号
19.一乗谷城下町橋5号 20.城下町橋6号/21.7号
22.一乗谷城下町橋8号 23.一乗谷城下町橋9号
24.一乗谷城下町橋10号 25.一乗谷城下町橋11号
26.一乗谷城下町橋12号 27.一乗谷城下町橋13号
28.一乗谷城下町橋14号 29.一乗谷城下町橋15号
30.一乗谷城下町橋16号 31.一乗谷城下町橋17号
32.一乗谷城下町橋18号 33.一乗谷城下町橋19号
34.一乗谷城下町橋20号 35.一乗谷城下町橋21号
36.一乗谷城下町橋22号
今度は川の反対側へと向かう。そこが朝倉市の居館があった場所で、高台からは建物の土台と庭園を見降ろすことができる。盛者必衰と言う言葉があるが、この遺跡を見降ろしてまず思い浮かぶのはこの言葉である。これが歴史なんだと思う。教科書では絶対に教えてくれない歴史である。
2014.09.14(日)晴。 今日も、福井の空は真っ青。6時過ぎに福井市内のホテルを出発して、ひんやりした空気の中、まずは三国を目指し、その後南へ下りながら徐々に戻ることとする。それにしても、昨日の池田町・大野市・勝山市と一般道のアベレージが非常に高いのには正直驚いた。いつもなら、田舎へ行く度にのんびりと走る地元車にやきもきするのだが、今回は違った。行く先々で軽自動車にアオラレル始末。そんなに急がなくてもいいじゃない、と、いつもとは全く立場が逆転の福井の旅。これだから旅は面白い。
13.前田又兵衛翁頌徳碑入口橋 / 14.頌徳碑前橋
桁 / 1枚桁 福井市小和清水町
永平寺を後にして、さらに南へ向かう。R364で峠越えして越前高田へと降りて行き、足羽川沿いR158を上流へと向かう。やがて、小和清水町に入ると右手に小さな発電所が見えて来る。その名も小和清水発電所。昨日発見した導水路はここへ流れて来ていたのであった。発電所を過ぎてものの200m、緩い右カーブの右手に突如立派な桁橋が現われる。何のための桁橋か今一はっきりしないが、階段を登って行くと石碑が2基建っており、左手には前田又兵衛翁頌徳碑とある。右手のは読めない。どうやらこの石碑の為の入口の橋と言うことのようだ。階段を上がった左手、正に前田又兵衛翁頌徳碑の下には大きな自然石1枚橋もある。